壁に耳有り障子に目有り 俺の隣にでかい蟻
こんにちは。最近の悩みは、弁当とカップラーメンを頼むとお箸が二膳つくことです。
(起)
暇に飽かして小学生が作った泥団子みたいな休日を送るのもなんだと思ったので、ちょいと、2008年の2ch、つまり、ネット創成期のIT原始人はどのような生活を送っていたのか見てみようと思いました。
(承)
約10年前のネット掲示板なんて死語のオンパレードで笑えるだろうと思って覗いて見たら、案の定。「ワロスwwwwwwwwwwwww」「ちょ、お前wwwww」「>>1の文才に脱帽wwwwwwwwwwww」
なるほど、たしかに縄文時代、草が一杯で自然にあふれてるなぁという感じでした(小学生並みの感想)。
ただ、これは今にもいえることで、「草」「さすがに草」「○○は××だからもっとやれ」などなど、ただ言葉が変わっているだけ。だけど、ワロスは古くて草は新しい、古い新しいという言葉の間にはそれほど時間的な溝はないんだろうけど、歴史といってしまえば歴史なんだな。長い長い年月のなかから10年切り取っても小さいながら歴史ってあるんだなぁと思うと感慨深くなりました。
それに付随してるのかどうなのか知りませんが、ちょっと思うところ、気づいたことがあって、
(転)
関係ないけどこの前サークルで後輩の女子が泣いてました。色々重なってつらくなっちゃったんだろうなぁ
(結)
以前ツイッターで、「昔のオタクはたしかに気持ち悪かったが、それでも自分の好きなものに対して突き詰めていたから、話してみるとおもしろかった。だが、今のオタクの大多数は、所謂リア充になれなかったやつで、浅いしどっちつかず、話しててもつまらないし、見てても気持ち悪い。」
という意見を見て、昔のオタクと今のオタクの違いとは、を今回をきっかけとして考えてみると、情報の共有のしやすさにあるんだなぁと思います。
大前提として、人は、ある程度のものは他人と共有するとそこで終わるものだと思ってます。(小さな悩みや愚痴を人に話したら解決した。といった感じ。)
それで、昔は勿論ネットが浸透してないし、持っているのは裕福な人か所謂電子機器オタクだけ。そんな中自分の好きなものはかなりマニアック、または、アニメがすきで周りにもいるけど宮崎勤事件を機に肩身が狭い。人と話せない、共有できないから自分でただ黙々と造詣を深める。これが昔のオタク。
対して、ハルヒやけいおん等のアニメから始まった、アニメ及びオタクの地位向上と、ネットの普及を経て、それまで他人と共有することがむずかしかった所謂オタク趣味が簡単に共有できるようになった。それも、造詣を深める前に。だから、終ってしまう。また、他人との共有を重視するあまり、自分の好きなものと自分のコミュニティで流行っているものを錯覚している(のかもしれない。)これが今のオタク。
他人と趣味を共有したくても手段がなく、自分で深めるしか作品及び好きなものに対して出来る行為がなかった昔のオタクと、共有が簡単になって昔よりもコミュニケーションが容易になったがそれゆえにそこで止まってしまい、趣味としての厚みが欠けてしまった今のオタク、どちらが上かはよくわかりません。
というか、全部推察なので皆ここまで読んだら全部忘れて夕飯のことでも考えてください(丸投げ)
P.S.
Cuphead買いました。
手ごたえのある横スクアクションでとてもおもしろい。